Long, Long Autumn Nights: Selected Poems of Oguma Hideo, 1901-1940
(Ann Arbor: Center for Japanese Studies, University of Michigan, 1989)
Translated by David Goodman
長髪を愛せよ
『これはまた私の頭髪の弁明の詞ともなる』
わたしは長髪弁護をする程に小心でありたくない、だがこれは愛らしい私の髪にたいする、軽蔑と誤解と罵倒とに捧げる小さな反抗の歌であり併せて我々は長髪族に与へる讃歌であると思へば間違ひない。だから肩の凝らない程度で読んで欲しいこの一篇である。
「小熊の髪」に就いての批評、この批評の中には悪罵党と讃美党が含まれてゐる。私にとつてはいづれ有り難いことだ、同時にまことに有り難くない迷惑千万なことだ、要は無関心党であつて欲しいのだ。
いつか小学校長会議の話題に「小熊の髪」がのぼつたさうだ、私の珍奇であり異常である縮毛の頭が校舎に見えると児童はいつせいに眼をみはつて教育上よろしくない、あんなにあまり来てほしくないといふのださうだ。
「頭の毛を短くしなければ親子の縁をきる」と私の肉親は脅した、行人はたかだとに「混血児」なる野次と白眼を贈つた、いままた校長連は私の長髪の悪罵をした。
いかにも長髪は赤化のシンボルと俗に言はれてゐるが、私が長髪を髪になびかせて学校を訪問することが赤旗をペン/\と風にひるがへす革命のプロパガンダであるから児童教育上よろしくないとはあまりに老いぼれはてたる遠視の錯覚ではあるまいか、あゝ、なんといふ虐げられたる長髪の群であらうか。
「誰だそのへんでクスクス笑つてゐる男は。」
だが長髪の我等よ悲しむなかれ、青春の途上にある者達よ、未開の原始林を戴く若者よ、長髪は情熱の変形であり象徴であるから激情を抱くものほど色濃く量多く縮れてゐるのは事実である。年齢と頭髪とはかならずしも歩を同じくしない、頭髪と熱情とはアインスタインである。
校長連の禿頭輩が、私の髪の品評をするのは老いたるものの青春を失つた悲哀の歌であり他人のおせつかいのひまにアイウエオの発音研究をやるか、前額に僅かに余命をとどめる茶褐色数本の髪にチックをつけて愛玩すべしである。さきに来旭した洋画家戸上重雄氏「蓬頭垢面。」長髪は偽芸術家なりと断定し校長連大いに共鳴の声をあげたりとか、「ホテルとフロック」の魔術を知らざる愚を悲しむのみ
私の愛らしい長髪の友よ青春の黒旗を風にひるがいせ、髪の薄いのは、老衰か禿頭病か梅毒の三期なり、トルストイ爺さんの頭を見よ、あの偉大な純白な青春を。ドストヱフスキーは前の方が禿げあがつてゐたかはりに、頤鬚がすばらしい情熱の繁茂であつた。
長髪を愛せよ、讃へよ。
冷静と沈思にひそむ水底の石でさへ情熱の石は苔が生えてゐるではないかいな。
小熊秀雄
多謝:青空文庫プロジェクト「小熊秀雄全集」
Hideo Oguma>>
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